今日のことば

By staff on 2014/02/07 17:38
いま『L’Ordine Nuovo(ロルディネ・ヌオーヴォ)』(新秩序)の復刻版(テティ出版社)を手もとにこの文章を書いている。この復刻版には「社会主義文化の週刊評論誌」として1919年5月1日~1920年12月24日まで発行された第1シリーズ『O.N.』と、モスクワ滞在(1922年6月から1923年12月)の帰途立ち寄ったウィーン滞在中に「労働者の政治と文化の評論誌」として1924年3月1日~1925年3月1日まで断続的に発行された第3シリーズ『O.N.』とが収録されている。編集局所在地は第1シリーズはトリーノ、第3シリーズはローマとかわったが、いずれも編集責任者はグラムシであった。第1シリーズの『O.N.』の見出し項目一覧については、東京グラムシ会の会報『未来都市』に連載・紹介されているので、それを参照していただきたい。
第3シリーズの見出し項目も、近いうちに『未来都市』に紹介したいとおもっている。結局この第3シリーズは隔週刊として再刊されたが、一年間に7号しか発行されなかった。ファシズム支配の強まりなど理由はいろいろあるだろう。レーニン死後、哲学理論戦線にしぼっていえば、いわゆる“ボリシェヴィキ化”の名のもとにコミンテルンによる思想的“引き締め”が強化される時期と重なっている。ジノヴィエフ、ブハーリンをはじめとする当時のコミンテルン指導部によってハンガリーのジェルジ・ルカーチ(「歴史と階級意識」)、ドイツのカール・コルシュ(「マルクス主義と哲学」)が「修正主義」として槍玉にあがった。1924年6-7月にかけてひらかれコミンテルン5回大会ではジノヴィエフによって、ルカーチ、コルシュとともに、イタリアの学者でマルクス「価値論」の批判者でもあったアントニオ・グラッツィアデイも名指しで批判された。モスクワからウイーンに着いたばかりのグラムシは、すでに党の出版活動の一環として『O.N.』の再刊とともに、32-40頁ほどの小冊子を発行する構想を練っていたが、そのなかにはレーニンの「カール・マルクス」とともに、コルシュの「マルクス主義と哲学」やグラッツィアデイの「ローザ・ルクセンブルクの資本蓄積論」なども入っていた(1924年1月14日、ウィーン、イタリア共産党執行委員会宛のグラムシの書簡)。再刊『O.N.』の1924年4月1-15号から3回にわたってアマデーオ・ボルディーガ署名の長大論文「カール・マルクスの剰余価値論」が連載されたが、その次の号からグラッツィアデイ署名論文「共産主義の学説と剰余価値理論」が2回にわたって掲載された。おそらくボルディーガへの反論を意図したものであろう。また特筆すべきは、ヴィクトル・セルジュの長文のエッセイ「1917年のレーニン」が3回にわたって連載されている。グラムシはウィーン滞在中にセルジュと知り合っている。ソ連の党内でセルジュは一時トロツキー派に属したことはあるが、後に離れた。コミンテルンから追放されてからも徹底した反スターリン主義の立場を貫いた。要するに、再刊された『O.N.』の紙面を見ると、イタリア共産党内での「ヘゲモニー闘争」を如実に反映しているようにも読める。最終号(1925年3月1日号)の一面の論説のタイトルは「党と分派」であり、トリアッティが執筆しグラムシも同意したものと言われている。
私は本年2月の「グラムシを読む会」でケヴィン・アンダーソン著『レーニン、ヘーゲル、および西欧マルクス主義――批判的研究』を参考に「レーニン『ヘーゲル・ノート』とグラムシ」について報告するが、アンダーソンはその著書のなかで次のように述べている。「たしかに党の指導者でもあった20世紀の主なマルクス主義思想家のうち、マルクスが“すべての弁証法の源泉”と呼んだヘーゲル弁証法へ“回帰”したものはひとりもいなかった」と述べ、「唯一の例外」としてグラムシの名前を挙げている。さらにアンダーソンは「1920年代に、ヘーゲル的マルクス主義者アントニオ・グラムシはイタリアにおけるレーニンとヘーゲルについての討論を開始しようと試みた。1924年-26年にグラムシはイタリア共産党系の新聞雑誌にヘーゲルに関するレーニンのいくつかの短い文書を発表した。そのうちの一つはレーニンの《ヘーゲル・ノート》からの重要な断片的エッセイ《弁証法の問題について》であった」と書いている。1915年執筆の「弁証法の問題について」は、レーニン没後の1925年に雑誌《ボリシェヴィク》第5-6号にはじめて発表された(全集38巻に収録)。だからグラムシが読もうとおもえばロシア語で読むことはできたし、イタリアの雑誌にその翻訳を発表することも不可能ではなかった。発表されたとすればどの新聞雑誌に発表されたのか、現在調査中である。知っている人があれば教えてほしい。少なくとも第3シリーズの『O.N.』に発表された形跡はない。
私が調べた限りでは、ヘーゲルに関してレーニンの著述のうち、第3シリーズの『O.N.』に発表されているのは、①レーニンが1914年にグラナート百科辞典のために書いた論文「カール・マルクス」(但しこれは「マルクスの学説」のうちの哲学部分の抜粋で、『O.N』再刊第2号・1924年3月15日号に発表された。そのときのタイトルは「カール・マルクスとその学説」)、②レーニンが1922年3月号の『マルクス主義の旗のもとに』のために書いた論文「戦闘的唯物論の意義について」(『O.N』第3-4合併号・1924年4月1-15日号)である。①はグラムシ自身が翻訳した。②はグラムシが翻訳したかどうかは確認できないが、この論文のイタリア語版の発表に直接関わったことはまちがいない。
再刊『O.N』第1号・1924年3月の論説「領袖(Capo)」は、この年の初めに息を引き取ったレーニンを追悼してグラムシが書いたものである。2面から4面までレーニンの活動の足跡が紹介されているが、無署名である。末尾にレーニンの主要な文献目録が付されているが、哲学理論に関するものとしては1909年発表の『唯物論と経験批判論』(「マルクス主義と経験批判論」のタイトルで紹介)だけである。但し、第1号にはグラムシが書いた論説のすぐ後に『フォイエルバッハ論』からとおぼしきエンゲルスの文章がタイトルなしで紹介されている。
『O.N』に「戦闘的唯物論の意義について」の翻訳を発表する際の短い前書きには、レーニンが1913年に発表した「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」の掲載が予告されていた。この発表をまたずに『O.N』は停刊となってしまったが、このレーニン論文は1925年10月24日付『ウニタ』に発表されている。
レーニンがヘーゲル哲学、とくにヘーゲル『論理学』の研究に集中的に取りかかったのは、この短い論文「三つの源泉と三つの構成部分」を書いた翌年の1914-15年のことであった。この時期はレーニンが「カール・マルクス」(1914年)を執筆した時期とも重なる。
レーニンの論文「カール・マルクス」は、グラムシの「実践の哲学」(ないしは「マルクス主義」・「史的唯物論」)を理解し深めるうえで決定的な影響を与えた労作の一つであることはまちがいないが、『獄中ノート』草稿を読むと、あきらかにレーニン理論の「補足」ともとれるグラムシの分析視点が見えてくる。第一は、「カール・マルクス」の「唯物史観」の項でレーニンが省略したマルクス「経済学批判序言」の重要な文章を『獄中ノート』で復元し繰り返し吟味した問題がある。これについてはこれまで何度も論じているので、ここでは割愛する。第二は、レーニンがくりかえしその重要性を強調した「哲学的唯物論」の概念のとらえ方の違いの問題である。論文「カール・マルクス」でレーニンは「マルクスの学説」の項の冒頭の中見出しに「哲学的唯物論」をかかげ、「近代の哲学の大きな根本問題」として、自然にたいして精神が根源的であると主張した人々は「観念論の陣営を形成し」、自然を根源的なものとみた他の人々は「唯物論の種々の学派に属する」としたエンゲルスの「フォイエルバッハ論」で展開された命題を基本的に踏襲している。この当時のレーニンはマルクスの哲学を「完成された哲学的唯物論」(「三つの源泉と三つの構成部分」)であるとして、「哲学的唯物論」をきわめて重要なマルクス哲学の根本概念ととらえていた。1922年の論文「戦闘的唯物論の意義について」でレーニンは「哲学的唯物論」について一言もふれていない。「ヘーゲル研究」以前の、あるいは研究中の「哲学的唯物論」概念のレーニンのとらえ方と、『獄中ノート』におけるグラムシの「哲学的唯物論」のとらえ方はきわめて対照的である。こうした違いを百も承知の上で、というのは、「三つの源泉と三つの構成部分」も「カール・マルクス」もイタリア語版の発表に直接関わったのはグラムシ本人であるからだが、グラムシはそれをけっしてレーニンに帰することはなかった。グラムシの批判の対象はとりわけブハーリンである。
だがこの問題は単なる用語上の違いの問題に矮小化することはできない。1922年のレーニンは「戦闘的唯物論」としてマルクス主義の哲学的復権を構想した。グラムシはその10年後1932年に「マルクス主義・史的唯物論」を「実践の哲学」に書き換えた。アンダーソンも前掲の著書で指摘しているように、レーニンは、1914年の第二インターの崩壊を目にしてそれまで自らも順じていたマルクス主義の根本命題を「再検討」する必要性を痛感したにちがいない。レーニンの場合それは1914-15年の「ヘーゲル研究」への没頭に集中的にあらわれた。グラムシも1917年の10月革命勃発のニュースを耳にしたとき、「『資本論』に反する革命」(1917年12月24日『アヴァンティ!』)で「事実はイデオロギーを乗り越えた。事実はロシア史が史的唯物論の命題にしたがって展開されるはずであった批判的図式を木っ端みじんにしてしまった」と書いた。第二インタナショナルの崩壊をマルクス主義歴史観の破綻ととらえその「根本的見直し」の切実性へと結びつけたレーニンと、10月革命の成功を「史的唯物論」の基本命題の崩壊ととらえ、後に獄中でマルクス主義を「実践の哲学」ととらえ返したグラムシに、マルクス主義の危機からの「復権」にかけた両者に共通する覚悟と決断を見るおもいがするが、どうであろうか。2月8日の「グラムシを読む会」ではこの問題について考えているところを発言するつもりである。

(小原耕一)

By staff on 2014/01/07 19:39
異口同音。安倍内閣とマスコミへの批判と怒りの言葉を連ねた、沢山の年賀状を頂いた。
私もまた同じ思いではあるが、では如何するか?何がポイントか?優先させ共に行動する目標は何か?その言葉が少なかったことが気懸りだった。同じ想いは1月5日に千駄ヶ谷区民会館で開かれた『市民の望む東京都の政策について』昨年の都知事選で宇都宮けんじさんを応援して選挙戦を闘った勝手連の連絡会の討論集会でも。宇都宮けんじさんが示した『人にやさしい東京』へ。実現目指す4つの柱。政策集Ⅰ~Ⅳの19項目の政策への反対はなかったが腹の底から『よし!やろう!』と沸き立つものを感じさせなかった。グラムシ流に云えば「感じない、知ること、行動する事が連動しない。鍵が何だか分からない」のだ。それに比べて引き続き会場を変えて行われた座間宮ガロウさんの講演は湧きに沸いた。山本太郎さんの参議院選におけるインターネット選挙の経験・実例とその論理構造のはなし。参加者との対話と映像を交えながらの『ネット選挙のレクチャー』の1時間は実に分かり易く、何を優先すべきであるか明快で、迫力満点だった。中身はネットにアクセスして映像をご覧いただきたい。題目とメールアドレスを下記しておく。
① ネット選挙解禁で世界中の人を勝手連にする方法
② そこから導き出されるネット選挙の事前準備の方法
③ ネット選挙で集票しようとする安易な発想を捨てる
④ 投票行動を促すことも大事だが、『選挙運動行動』を促せ
⑤ 誹謗中傷・デマ対策をする方法
⑥ シビアでポジティブなメッセージが人を行動させる
⑦ ネット選挙にどのように力を入れれば当選後に役立つか
⑧ 山本太郎氏の参議院選挙におけるネット選挙の戦術紹介
映像と講演をご覧になりたい方はインターネットで下記へアクセスして下さい。

hikkurikaesu@s.blayn.jp

(丸山茂樹)
By staff on 2013/11/29 17:59
「かれは、着古した、汚れたシャツを着て、ネクタイは全然していなかった。私はそれまでかれに会ったことはなかったが、うわさはしょっちゅう聞いていたので、かれのことを背が高くて強そうな巨人のように想像していた。ところがいざ会って見ると、身体の様子が正常でなく、そのうえみなりをかまわぬ人で、髪を伸ばし、髪の毛はよく手入れしてなくてもじゃもじゃで、服も見ばえがせず、しみだらけだった。」(G.フィオ-リ藤沢道郎訳『グラムシの生涯』平凡社、1972年、277頁)。サルデ-ニアの金属工がグラムシに初めて会った時の印象である。恐らく余り変わらない風貌でグラムシがイタリアに帰国したのは、1924年5月のことである。同年4月6日の選挙で、べネツィアの選挙区から共産党の国会議員に当選したためであった。祖国には2年の空白があった。
かつて、以上のような書き出しで、同上のタイトルで拙稿を綴ったことがある(共著『ヨ-ロッパの都市と思想』勁草書房、1996年)。ムッソリ-ニは、都市「ロ-マ」の「ファシスト」化によって、「ロ-マ」を自らの政治の「テキスト」として読解させようとしたのであった。一部を引用しよう。「ベネツィア宮殿から外へ出て、ロ-マ都市を展望してみよう。そこに、いまでも、ロ-マの「ファシスト化」を試みたムッソリ-ニの野望を「解読できる」と田之倉稔氏はいう。ロ-マ滞在の折、私自身繰り返し眺めた筈の景観ではあるが、素人の私にはそのような「解読」は不可能であった。田之倉氏に従って「ファシスト」のテキストとしての「ロ-マ」を読むことにしよう。
「仮にロ-はベネツィア広場に立つとしよう。北の方角に真っ直ぐにコルソ通りが走っており、これを進めばポ-ポロ広場とポ-ポロ門につきあたることになる。この門をくぐれば、フラミ-ニア通りに出る。『世界』とロ-マをつないだ道である。このフラミ-ニアの後方は古代ロ-マの時代にあっては、蝦夷の地であった。極端なことを言えば、『文明』はポ-ポロ門を境に輝きを失うことになった。この境界はまさに『文明』と『野蛮』をへだてるものであった。ロ-マ軍はこの門を出て、えびすの国々を平定し、教化したのである。逆に北方のえびすの民は、時代はずっと下ってからであるが、文明の中心へと侵入してきたのである」(田之倉稔『ファシストを演じた人びと』(青土社、1987年、350頁)。もう一箇所、「解読」を示そう。「この帝国通りは市の中心となる、まさに『ファシスト・ランドスケ-プ』と呼ぶにふさわしかった。実際コロシウムが視界に入ることによって、広場からの眺望はうつくしくなった。というのは、ビットリオ・エマヌエ-レ二世のモニュメントのもつおぞましさと醜さが大いに減じられるからである。この界隈の整備以前にはおそらくもっと不調和であったと思われるこのモニュメントは、いうなれば、リソルジメント後遺症を象徴しているし、また『美しいファシスト・ランドスケ-プ』の建設を用意したようでもある」(同上、352頁)
ほんの一部の「読解」の紹介であるが、この「ファシスト化」された「ロ-マ」で多くのイタリア人は興奮しムッソリ-ニに喝采を送り、酔っていた。しかし、グラムシは対極に立って醒めていた。元社会党員をこう酷評する。「イタリアにはファシスト体制が存在する。ファシズムの首領はベニ-ト・ムッソリ-ニである。公式のイデオロギ-のなかで、この首領は神格化され、無謬の人といわれ、神聖ロ-マ帝国の再興を組織し構想する人だと予告されている。新聞には連日、各地の支部からこの首領に寄せる何十、何百通の賛辞の電文が掲載してある。何枚かの写真もある。かつて社会党の集会で見かけたその顔は、いっそう険しい表情になっている。われわれはその顔に見覚えがある。目玉をぎょろぎょろさせるあの表情に見覚えがある。その機械的な恐怖感で、過去にはブルジョアジ-をぞっとさせたに違いない。今はプロレタリア-トをぞっとさせている。われわれは人を脅迫するようにいつも握りしめたあのこぶしに見覚えがある。こうしたきまりきった動作、こうした道具立ては、みんなわれわれにおなじみのものばかりだ。この人物がブルジョア学校の青年の琴線にふれ、深い印象を与えることができる理由は、われわれにはわかっている。その顔は、そばから眺めていてさえまことに印象的なのだ・・・」(前掲、フィヨ-リ書、292-293頁)。グラムシのムッソリ-ニ評を続けよう。「かれはプロレタリア-トの指導者ではありえなかった。かれは、再びブルボン的となり、獰猛な顔を好むようになったブルジョアジ-の、独裁者となった。かつてかれが目玉をぎょろつかせたり、握りこぶしを威嚇するように突き出したときに恐怖を感じたブルジョアジ-は、今度はその同じ恐怖感を労働者階級にあじあわせてやりたいと望んでいるのである」(同上、293頁)
ムッソリ-ニが演技と現実とが見定めえない程に熱中した「統領」の行動、その舞台装置も、グラムシにあってはカタナシであった。この醒めた「目」はムッソリ-ニにとっても、ファシズムにとっても恐怖であったに違いない。「頭脳」だけでなく、行動を、「存在」さえも止めることになったのは当然であった。当時34歳の共産党書記長グラムシ、42歳のファシスト国家の統帥ムッソリ-ニは一部を紹介したファシストのランドスケ-プ「ロ-マ」を舞台に対決する。圧巻は議会での対決である。1925年5月16日、所はモンテチト-リオの議事堂であった。「結社、法人、団体の活動と、それらへの公務員の所属を規制する」法案をめぐって、グラムシは共産党員の弾圧を告発する。フィオ-リは両者のやりとりを興味深く描く。前掲書(291-292頁)を参照されたい。
予感はしていただろうが、意外に早くという感じもあったのではないか、1926年11月8日午後10時30分、国会議員不逮捕の権限にもかかわらずグラムシはムッソリ-ニの指令によって自宅で逮捕された。このとき35歳であった。その後、裁判そして流刑と、苦難の10年余が続く。家族への手紙を引用しよう。「あなたがいままでどおり強く勇敢な女性であることを私は信じている。しかし子供たちがりっぱに成長し、まったくあなたにふさわしい人間となるためには、あなたは今まで以上に強く、勇敢な女性でなければならぬだろう」とまずはモスクワ在住の妻宛てに、次いでサルデ-ニャの母には次のように書く。「最近はお母さんのことをよく考えました。あなたのお年と、いままでのご苦労のあと、また私が悲しい目に会わせることになりました。それでもがんばってください、私もがんばっています。そして、あなたの大きな愛とお人柄のやさしさで私を許してください。お母さんが元気で苦労にめげずにおられると聞けば、私も元気が出るでしょうから・・・私はおちついて静かにくらしています。精神的にはどんなことにも用意ができています。肉体的にも前途の困難をのりきり、平衡をたもつようにしたいと思います・・・家族の皆がひとりひとりなつかしく、私が今まで皆にやさしくりっぱにふるまったとは必ずしもいえないと思うと、今はとりわけ心が痛み、涙が流れます。これから私ももっとちゃんとしなければなりませんし、家族は皆それに値する人びとなのです。どうか今までと変わらず私を愛してください。そして私を忘れないでください」(フォ-リ書、331頁)。
グラムシは37年4月27日午前4時10分に息を引き取った。立ち会ったのは、義姉タチアナと実弟ジェンナ-ロの二人。叙上の手紙を書いてから10年半、享年46歳。死んだのは出獄直後。事実上の獄死、ファシストの総帥ムッソリ-ニによる圧殺であった。
レオナルド・ダビンチ空港から高速道路を経てロ-マ市内に入る辺りに白いピラミッドが目につく。かつてのエジプトの外交官の墓で観光の絵はがきにもなっている。その近隣の一角に墓地がある。「非カトリックの墓地」、「外国人の墓地」とも呼ばれている。私もしばしば訪れたことがある。一隅にグラムシの墓があるからだ。記憶を辿るとこうなる。入り口の正面に詩人シェリ-の大きな墓、そこから右へ糸杉の小道のつきあたりに目のさめるような紅の花に飾られてつつましくその墓はあった。
もう一人の男の、その後を記さねば不公平であろう。勿論、ムッソリ-ニである。
彼が演じる大舞台―「ロ-マ」の一端は述べた。当時のイタリアの多くの国民はその大スぺクタルに酔い、それなりに幸せな日々を送ったといったら言い過ぎであろうか。しかし、グラムシは醒めていた。そして断固としてその壮大な幻想の観客であることを拒否した。それどころか、ファシストの夢を粉砕すべくロ-マの舞台を歩き、大衆に夢から醒めることを説いた。圧殺されたのは当然の「報い」だった。事実、彼の逮捕後、ムッソリ-ニの夢はふくらみ、スタ-としての存在は一層華麗になった。グラムシの圧殺はファシスト国家隆盛の「通過儀礼」であったのだ。
歴史はめぐる。舞台もめぐった。今度はムッソリ-ニの死によってファシスト国家は名実ともに止めをさされなければならなかった。こう考えると次の田之倉氏の「読解」は肯綮にあたるだろう。「ファシズムの崩壊はムッソリ-ニの死によって完璧となる。統帥は当然のごとくパルチザンのいけにえとなる。その死体はミラノ中央駅近くのロレット広場にさかさ吊りにされ、さらされる。それはグラムシに対するレクイエムの儀礼であった。さらし台にいけにえを置く祭壇であった。思えば、グラムシとムッソリ-ニ、この二人の死体は、ファシズム体制の始まりと終焉を見事に象徴していることになる」(前掲、田之倉書、21頁)。ムッソリ-ニが銃殺された、コモ湖へは行ったが、「現場」は確認できなかった。ロレット広場の、さかさ吊りの場所には小さな小屋があったことを憶えている。

(黒沢惟昭)

By staff on 2013/10/31 15:12
JR北海道のレール異常放置はひどい話だ。鉄道は北海道では怖くていやだという声ももっともだ。しかし鉄道なしでというわけにもいかない.なんとかしなければなるまい。
そこで国交省は改善命令を出すし、メディアは安全文化を崩壊させた社内体制・企業体質を批判することに忙しい。その批判の趣旨はみな正しいだろう。しかし私には一つ気になることがある。JR北海道はなぜそういう企業体質になったのか。そこがぼやかされているのではないか。
問題は二十数年前、国鉄分割民営化にまでさかのぼると思う。国鉄赤字累積における国家の鉄道政策の責任に眼をつぶり、一方で労働組合に攻撃を集中して、国鉄解体・民営化が問題を解決すると、国も、それに動員されたメディア・市民社会も声を合わせたのだった。だがこの民営化・JR発足には色々問題があったが、ことにJR北海道は、経営として成り立たない赤字会社化の運命にあると、はじめからわかっていたのだ。果たして黒字化のための無謀な方針(航空路線との競争のためのスピード・アップ、極度の要員削減等)が、二十数年のあいだに、金もうけ優先、安全無視の無責任体制を定着させたのだ。
こういうことは、いまJR北海道を非難するメディアにはよくわかっていたはずだ。その責任はどうなるのか。公共の分野(医療や教育もそうだが)は金もうけを基準としないという原則を主張する大きなチャンスなのに、むしろメディアは各方面の規制緩和にまだ追随しているようにみえる。
もう一つ。国鉄分割民営化は、旧・新会社は別々だという理屈で、JR側の「採用の自由」を認め、その後の経済界全体での恣意的解雇横行のきっかけを作った面がある。国鉄労働運動はもちろん崩壊したのだったが、今回JR北海道内の諸組合に共同行動の話があった。折り合いがつかなかったというのが残念なことだ。対立は共闘の名分にあったらしいが、共闘の形式はそんなにこだわるべきことか。事故の本質が一番よくわかるのは現場労働者だから、各組合ともそれぞれの現場組合員の声によって、組合の力に応じて自分でやれることを始めればと思う。それくらいの相互接触のなかで共闘を追求すればよい。そういう各組合の具体的な自立性によって組合が組合員と社会とに対する責任を果たすことで、JR内で失った運動の自立性を回復する機会をつかむことができるのではないだろうか。

(伊藤 晃)

By staff on 2013/10/02 12:33
アイヌ民族は日本の先住民族である。長らくこの事実を認めてこなかった日本政府は、2007年に世界先住民族権利宣言が国連で採択され、自身も賛成投票するに及び、あわててアイヌが先住民族であることを認定した。2008年洞爺湖サミットを直前に控え、国連人権理事会の「外圧」に屈する形で認定されたこの事実は、日本民族のアイヌ民族に対する歴史的無知・冷酷さをさらけ出した。このため、政府は急遽「有識者懇談会」を設置して反省のポーズを示し、「政策推進会議」で貧窮したアイヌに対する施策を図るとした。だが、今日に到るまで論議された内容は北海道・白老の「象徴的空間」が中心で、アイヌに対する謝罪はなく、「先住権」論議は皆無であり、教育、福祉、文化は行政当局に委ねられ、補償、自立化基金、参政権は顧みられていない。「国民の理解がない現状」ではそれがアイヌのためになるというのが政府官僚の言い分だが、「国民の理解」を妨げたのが政府である以上、謝罪から出発し先住権の具体化に努力するのが政府の努めではないか。
日本のサバルタン(従属的社会集団)であるアイヌ民族は、帝国主義的近代化のために植民地支配され、土地を強奪され、狩猟を禁止され、最底辺労働力化され、同化政策の下で言語・文化・風俗・習慣を一方的に禁止・変更され、「滅亡する民族」の道を歩まされた。最近の日本版・映画『許されざる者』はその一端をリアルに描き出している。だが1970年代の教育学園闘争は知の権力たる大学教育・研究の侵略性・人民抑圧性を告発し、アイヌは「滅亡する民族」の道に誘う和人を糾弾して「新しい社会運動」の一角に登場し、階級還元論的な解決を求める左翼にも反省を求めた。この闘いはアイヌの先住民族としての歴史を反省し、和人への同化を拒否して民族的主体性を培い、民族文化の復活と保存を図る知的・モラル的な闘いであった。とりわけコミュニケーション軽視の「糾弾主義」的限界を克服する90年代以降の「人権と共生」への転回は、その行為の人間的意味と価値を求めており、A.グラムシ『獄中ノート』を継承するG.スピヴァク「サバルタンは語ることができるか」やS.ムフなどポストモダン系の寄与が大きい。
2007年国連決議以降、世界の先住民族運動は前進している。ボリビア、エクアドルなどでは先住民族の政権が生まれ、COP10(生物多様性条約)では希少資源をめぐる多国籍企業の略奪を規制する成果を勝ち取り、若者世代の一か月有余にわたるアイヌモシリ-アオテアロア交流では、マオリ民族による1970年代以降の言語・文化・社会・政治諸側面における目覚しい復興を現地で研修してきた。しかし日本では、政府の「多文化共生」を標榜した懐柔策(象徴的空間)に翻弄され、北海道アイヌ協会は「謝罪要求-補償-先住権論議」を消極化し、不正経理を追及されて政府助成金づけの弱点を露呈している。本当に多文化主義に立脚するなら、政府はそうしたアメとムチを用いた手段でアイヌを沈黙させるべきではない。いまアイヌ民族諸団体はNPO(非営利事業)を設立して経済基盤づくりに力を注いでいるが、さらにガバナンス(団体としての自己統治力)を高め、アイヌ協会に代わる全国的な代表組織を形成すると同時に、外交的な交渉力育成が求められる。「第二次世界の先住民族の国際10年」を締めくくる2014年9月の国連特別総会に日本代表団の一員として参加すると同時に、日露両国によって不当に分割支配されてきた北方諸島交渉への異議を発信すべきであろう。

(本多正也)

By staff on 2013/09/10 12:25
今、政治的にも思想的にも深刻な局面にあると考へている。丁度、ヒットラーが政権を掌握した1933年、あるいは日本のアジア侵略戦争の発端になった1931年の“満州事変”の時期に比較できる深刻な歴史的岐路ではあるまいか。この時期の特徴は、権力を掌握した勢力が政治・軍事政策を強行したことと共に、思想的・文化的にも支配的影響力をつよめ、言論・教育・文化の領域でも彼らに追随する勢力が圧倒的多数を占めたことである。
人々の自発的な活動は抑圧され、大小様々な社会運動も僅かな活動の芽も窒息させられた。「それでも日本人は戦争を選んだ」という論者がいるが、選んだという言葉は適切ではない。強制と誘導によって追い込まれたのである。では今を生きる我々が、かつてのように追い込まれないために、何に着目し実践すべきであろうか。
1つは、これまでのやり方を惰性的に続けるのではなく、具体的かつ実践的に自分が、人々が自由に語り合い、自由に行動できる時間と空間を意識的につくりだす努力を懸命に行う事である。大小無数の運動の陣地構築を抜きにして何を言っても始まらない。
2つには、かつてグラムシや魯迅や田中正造が行ったように権力と闘う根源的な思想の革新をはかることである。民主党政権による政権交代の夢が打ち砕かれたのは、色々な要因があるが、グローバリゼーション下の社会変革の思想と政策の創造を欠いていることを指摘しないわけにはいかない。菅直人元首相が「第3の開国」と称してTPP参加を進め、野田佳彦前首相が「税と社会保障の一体的改革」と称して保守政党や体制側政策に飲み込まれていったことを根源的に問い直すことが肝要である。この役目の一端を担い得るか否か。東京グラムシ会の存在理由もまた問われていることを自覚しよう。

(丸山茂樹)

By staff on 2013/07/01 16:17
このところ、喪失感に囚われている。
私が生きているこの世の知性は失われていくばかりだという、暗い喪失感である。
目にするものの多くに知性の輝きは見当たらず、耳にするものの多くに知性の響きはない。「失われた20年」といわれるが、この20年間に、多くの知性ある先達を喪った。私たちが失ったのは、知性だったのではなかろうか。
知識とは知恵と見識であり、知識を踏まえて新たな広がりを生み出すのが知性であると、私は思う。そして、そこには品格がなければならないと。
ホモ・サピエンス、ヒトが営々と培ってきた知識は、現代にいたっては、山のように峙ち、海のように深まり、人間の知性は豊かに広がったはずであった。
しかし、いま、その知性の広がりは貧しい。あまりにも単純な情報や誤った解釈を知識としてひけらかし、声高に言い立てる輩のなんと多いことか。――先の品格という言葉さえ、最近はその手の輩に安易に多用されて、それこそ品格がなくなってしまった。このところの世の中にあふれる言説を見れば、知性の広がりは、まるで砂漠のようで、人間の賢さは枯れ、乾いた砂に埋もれてしまったかのように見える。
知識の山から吹きおりる風は失われてしまったのだろうか。知識の海から寄せる波は消えてしまったのだろうか。
いや、そうではないと信じたい。
たしかに、いまの世の中(大衆)は、低俗粗暴な口舌の似非知識人たちに引きずられている感がある。だが、知性の広がりが消滅したわけではない。知識の山も海もたしかに存在している。人間の賢さは失われていないはずだ。真の知性(知識人)の創出は可能なはずだ。
グラムシの言うように、その道は、長く、困難だろう。しかし、そのグラムシは「知性のペシミズム、意志のオプティミズム」と言う。「あらゆる虚脱状態は知的・道徳的無秩序をもたらす。最悪の恐怖を前にしても絶望せず、ばかばかしい言動にも熱狂しない、節度のある、忍耐強い人間を作り出す必要がある」
この知性に支えられた意志によって、浜に寄せる波のようにひたひたと、一滴から限りなく水面を連なっていく波紋のように絶え間なく、知の波を広げ、深めなければならない。
熱狂せず、絶望せず、持続される知の営みが、世の中(大衆)に沁み透り、やがて、鯨波となるように。
(松坂尚美)
By staff on 2013/06/03 21:04
閣僚の靖国神社参拝に抗議した韓国、中国に対し、この国の首相は「いかなる脅しにも屈しない」と見当違いの見得をきって見せた。抗議を脅しととらえる感覚には驚かされる。さらには、「侵略の定義は定まっていない」などと主張しているが、国連だの学説だのを持ち出すまでもなく、どんな小さな辞書にだって「侵略」は定義されている。過去を直視することできない臆病者なのであろう。一方、隣国の蔑称を口にしてはばからない、例の暴走老人は、首相よりも景気よく、戦争だ、軍事国家だ、核武装だなどとわめき散らして「愛国者」を気取っている。そしてまた、暴走老人に心酔する大阪のH氏は「銃弾が雨嵐(ついでながら、正しい日本語では「雨あられ」と言うんですよ、「愛国者」のHさん)のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、どこかで休息をさせてあげようと思ったら、慰安婦制度は必要なのは誰だってわかる」と公言しているようである(「誰だって」と言っているが、私にはさっぱりわからない。ひょっとして私は「一般常識」もわからぬ阿呆なのであろうか?)。語るに落ちるとはこのことである。何たる下品な発言であろうか。こんなことばかり言っている彼らは「日本を孤立と軽蔑の対象に貶め」るつもりなのであろう。 このような連中が「道徳教育」の旗を振り回しているのだが、彼らの説く「道徳」とはどんなものなのか。近隣諸国をいやしめ性奴隷を称揚するおぞましい「道徳」にちがいあるまい。これはもうブラックユーモアというほかない。
このような人品卑しき「愛国者」につける薬はないかしらん、と思っていたら、次のような言葉が目に留まった。今からおよそ90年前に、ベルギーの一社会主義者が述べた言葉である。「高い人倫的・文化的動因根拠からその祖国を愛するような人間にとっては……他の諸国民に恐怖と憎悪を流し込む代わりに、まさに他の諸国民に信頼と平和をもたらすように、その祖国を作り変え、拡大し高貴にするということほどに、高い理想は存在しないのである」。
拳拳服膺すべし、と言いたいところだが彼らの痴的水準(おっと失礼、「知的水準」とすべきところを、気を利かしたパソコンが変換ミスをしてしまった)では理解できないだろう。残念なことである。

(2013年5月15日 森川辰文)

By staff on 2013/05/09 12:47
原発事故後の最初の選挙で「原発推進」派が勝利を収めた日本に驚いたドイツ人が多かったという。メルケル政権は「フクシマ」に学んで全廃炉を決め、すでに過半数の22基が廃炉作業中だ。残りの稼動停止をもとめるデモも盛んで、横断幕の言葉には「フクシマを考えて、グローンデの稼動を止めよ」とある。「グローンデ」とは稼動中の原発所在地。(「朝日新聞The Globe」2013/02/03)
「フクシマ」を考えねばならないのは、日本人の方であるはずなんだが、これは一体どうしたことか。日本人こそ、いま、まさに感じ、考え、知らねばならない。「考え」てみれば、初期ユルゲン・ハーバマスの論考『イデオロギーとしての技術と科学』(1968年)にこんな言葉があった。

「相も変らず、技術の進歩する方向性、機能、スピードを決めているのが、市民社会的な利益であることは確かだが、しかし、これらの利益は、体制を保存するための利益をカバーし、市民社会的体制の全体をよりよいものとして定義している。……

こうして、一見すると、市民社会体制の発展が科学・技術の進歩というロジックに規定されているかのような展望を与えることになる。つまり、この進歩の内在的法則性が物的強制力をうみだし、機能的必要の意のままなる政治は、その強制にしたがわざるをえないように見えるのだ。だが、この仮象がじっさいに定着してしまうと、技術と科学の役割について宣伝・解説することが可能になり、また、なぜ、現代社会では実践的諸問題にかんする民主的な意志決定過程が効力をうしない、行政官がしつらえたいくつかの管理方式の、どれをえらぶかを国民投票によって決定するというやりかたにとってかわられ〈ざるをえない〉かを、正当化することができるのである。……
 
この技術至上主義(テクノクラシー)のテーゼは、学問の水準ではさまざまないいかたで展開されている。だが、より重要だと思えるのは、それが、背景イデオロギーとして、脱政治化された民衆の意識にはいりこみ、支配を正当化するうえで力を発揮することを可能にすることである。
こうしたイデオロギー固有の力は、コミュニケーション諸行為の関連体系と、シンボリクな媒介手段による相互行為の概念世界から、市民社会のなかでの自己了解の思考を引きはがし、科学的モデルに置き換えてしまうのだ。
これに足並みそろえて、市民社会の生活世界での文化的な、なんらかの自己了解の場に、目的合理的諸行為と適応行動というカテゴリーのもとに存在する人間の自己物象化が踏み込んでくるのである。」
[長谷川宏訳、平凡社、を参照し補強]


(2013年5月7日 山根 献)
By staff on 2013/04/01 15:23
私が「グラムシアン」という言葉に出会ったのは、1965年だったか66年であったか、鹿島保夫氏の「グラムシとチェスタートン」とかいう題の小文の中でのことであった。「グラムシスト」という言葉はあまり聞かないのに、「グラムシアン」はあるというのも、考えてみればよくわからないことだが、日本に「グラムシアン」が登場したのは、その頃からだろう。かれこれ50年近くになるわけだ。
以来、「グラムシアン」は日本で増殖したのだろうか。グラムシの名は広く知られるようになってきたが、こと「グラムシアン」はとなると、絶滅危惧種に数えられる状態になってきているのではないか。先年、人々の努力でグラムシ没後70周年シンポジウムが開催されたが、集まった人々がすべて「グラムシアン」だというわけでは当然ない。様々な学問領域、様々な運動実践にグラムシが役立つならば、それに越したことはないのであって、グラムシの思想・理論はそれら分野に受け継がれてよしとすべき、という考え方も出てこよう。
しかし、私自身はイタリア語をかじってはいないものの、どういう訳か自分を「グラムシアン」だと思っているので、それではさみしいのである。日本のグラムシ研究はそれこそ50年を優に越える年輪を刻み、その中での蓄積はいよいよ厚みを増してきている。石堂清倫氏をはじめとする第一世代の先達たちはあらかた没したが、上村忠男氏、松田博氏、鈴木富久氏その他の方々が後を承けて牽引し、様々な討論を繰り広げている。残存するところの「グラムシアン」がそれらの提起を受け止め、討論を豊かなものとしていくことが、まだまだ足りないと思う。新たに「グラムシアン」が補給されることは悲観的、老頭児のガンバリしかないだろう。
その意味で、最近の「グラムシを読む会」のテーマ、「マルクス主義の危機とグラムシ」の歴史的考察は、興味深いものとなっている。グラムシ思想・理論の自己客観化は大いに必要なことだし、それをイタリア・イデオロギーの歴史的文脈の中で行なうのではなく、飽くまでマルクス主義、マルクス派共産主義の歴史的文脈を優先させて行なうことは、今というこの時代になしうる最後のことと思うからである。

(2013年3月10日 前田浩志)